麻生百年史

程度大切油断大敵

百年のはじまり

3 麻生家と太吉の誕生
麻生家は今では菩提寺の川島正恩寺が消失し、過去帳なども灰に帰したためその記録も残っていないのが残念だが、同家に伝わるところによると大化の改新(六四五)で活躍した藤原鎌足の血筋を引き、藤原一族の流れをくんでいるといわれている。そして麻生家の名前の由来をたどると先祖が遠賀郡麻生郷に花の屋敷を築いた縁からその地名をとり麻生姓を名乗ったという。この地方には鎌倉、室町のころから麻生の姓を名乗る一族がいる。このように麻生家は古い士族の末裔であったが、いつのころからか村を治める庄屋(今でいう村長)になっていった。

太右衛門(太吉の祖父)は嘉麻郡立岩村字栢ノ森(現在の飯塚市柏の森)の 庄屋として村の人望を集めていた。そのために賀郎(太吉の父)もまた庄屋の職につき日夜、村のために奔走していた。
明治二年(一八九六)ころは嘉麻郡二十一ヵ村を、翌三年には穂波郡三十一ヵ村を治めるようになった。
賀郎は一見大胆に見えながら細心で先を見通す力もそなえ、一度決意したことは最後までやりぬく意思の強い性格で、また人望も厚く庄屋さまとも言われていた。この性格はのちに息子の太吉に受け継がれたようである。
妻のマツ女は、嘉麻郡稲築村字口ノ春の永富家の出身で旧家の出であり、 賀郎と違って身体が弱く、温厚な人柄であった。

このような家庭の中で庄屋の息子として鶴次郎(後の太吉)は、安政四年(一八五七)七月七日、七夕の日に筑前国嘉麻郡立岩村字栢ノ森(現飯塚市柏の森)で生まれたのである。賀郎は娘二人の子どもだっただけにこの鶴次郎の誕生はそれこそ良き跡とり息子ができた、と大喜びし期待もしたが、幼い頃の鶴次郎は知恵つきが遅く寺子屋に通う七つ八つの歳になってもあまり物覚えがよくなかった。このころの鶴次郎からは、後の大事業家となる片鱗をうかがうことは難しかった。それほど内気でひ弱であった。だから父の賀郎は心を痛め、厳しく育てようと心を砕いていた。

これについて、次のようなエピソードがある。
鶴次郎が十三の盆の日のことであった。朝早くから小屋の仔牛をひっぱり出して日課の草刈に出かけた。野原に行って、彼なりに懸命に草を刈り、自分でも満足するほどの量の草の山をいく束も作った。「これなら父にも褒めてもらえるぞ」内心得意顔で口笛を吹きながら草で仔牛が隠れるほど草を積んで丘を降りてきた。しかし途中で仔牛は草のあまりの重さにへばってしまい、道の途中に座りこんでしまった。鶴次郎が押しても叩いても引っぱっても一歩も動こうとはしなかった。それで仕方なくせっかく積んだ草の半分ほどおろして、ようやく帰ってきた。そしてこの話を自慢気に家人に話すと、いつの間にか縁側でその話を聞いていた賀郎がいきなり「この大馬鹿者!」と一喝し「足を洗って座敷にあがってこい」と言って、くるりと背むけて部屋に入ってしまった。

鶴次郎は、褒めてもらおうと懸命に草を刈ったのが、なぜに父を怒らせたのかよく飲み込めなかった。だから内心不服を顔に現したままま仏間に入っていった。父は仏前に正座していた。鶴次郎に背をみせたまま、ローソクに灯を点じ、線香をあげてじっとしていた。「お前はなぜ怒られるのかわからんようだな・・・・阿呆にもほどがある。まだほんの子供の仔牛に力以上の沢山の荷を背負わせ、牛を苦しめいい気になっておる。ものには程度があるということぐらいお前にはわからんのか・・・」鶴次郎は、だんだんと父の怒りの根本がわかってきた。黙って頭を下げはじめた。「そんなこともわからないとは、先祖さまに申し分けもない」そう言って仏壇に向かって深々と頭を下げるのだった。さらに父は、厳しい語調で「こんな簡単なことがわからぬ奴に家を譲るわけにはいかない。いますぐこの家を出て行け。勘当だ」ぴしゃりとそう言ってくるりと背を見せた。

鶴次郎ははじめて父の家長としての厳しさにふれ、言葉もでずただそこに腰を折り深々と頭を下げるしかなかった。その時夫のただならぬ様子に隣室から二人を覗っていた母親がそっと入ってきた。そして鶴次郎の隣に座り早く父に謝るよう促した。それでほっとした鶴次郎は、やっと顔を上げて細い声で「許して下さい。これからは決してこのようなことはしませんから・・・」これだけ言うのが精一杯であった。つづいて母親が「あなた、鶴次郎はまだ歳もゆかないことですしこのたびのことはよく言い聞かせて許してやって下さい」
ようやくこちらを向いた父は、ギロリとした眼で鶴次郎を睨みつけて「身のほどをわきまえない人間ほど始末におえないものはない。こんなことぐらい解からないようなら家から出て他人の飯を食ったほうがいい。そうすれば自ずと解かってくる」まだ怒りは解けてなかった。
そんな夫に母がなおも「鶴次郎もわざとやったことではありませんし、いまはいけなかったと許しを乞うて謝っているのですから、今日のところは私に免じて許してやって下さい。私からもようく言いきかせてやりますから・・・」そう言って自分のことのように頭を下げる妻の姿に、頑固一徹の父もようやく半ば折れた顔で「いいか鶴次郎、今日のところは母さんに免じて一応許してやるが今後このようなことをしでかしたら本当に勘当だぞ・・・」といって立ち上がりプイと部屋を出て行ってしまった。

このことは少年鶴次郎にとって、痛いほど胸底深く刻み込まれ、生涯忘れることのできないこととなった。それ以来鶴次郎は、太吉となってからも『程度大切、油断大敵』ということを座右の銘として、ことあるたびに心の戒めとして、難事に当たっていくようになったのである。

そしてこの数年後の明治五年に、鶴次郎は十六歳を迎え元服して太吉と改名した。それを機に賀朗は太吉にその職を譲り、太吉は立岩村の副戸長に就任した。父賀朗のうしろ立てがあるとはいうものの、ともかくもわずか十六歳で村を治めることとなった。 このときの経験が実際に後年『麻生商店』を軸に幾多の事業を経営するに当たっていかほど役に立ったか知れなかった。
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