麻生百年史

太吉とその家族

40.太吉の日常生活
太吉は、数十町におよぶ大庄屋のいわゆる“千把焚”といわれる、嘉麻郡でもまれな大農の出身だけに、幼少の頃から極めて早起きであった。また当時の農村の習慣である、灯油の節約から早寝であった。後年、実業界にあって、種々の折衝また宴会などで夜更かしすることがあっても、朝は必ず五時には離床していた。
起床するとまず広い庭園に出て、亭々たる樹木をわたってくる新鮮な空気を存分に吸い、小鳥たちのさえずりを耳にしながら、花壇や茶園などに手を加え、散歩するのであった。そして朝湯に入り、心身を爽快にしたのち、神棚に礼拝し、仏間に入って祖先の霊前に黙祷をささげるのである。
それから食前の梅干を一つ入れた湯茶を飲みながら、数種の新聞に目を通したのち、朝食をとるのである。

朝食後は、すぐ本邸の中の事務所に入り、来状を丁寧に読み、処置すべきものはそれぞれ指図をし、それから事業関係の各方面に電話をかけ、のち押し寄せてくる来客に接し、また現場の状況を視察、監督、或いは外出して取引先の会社に出掛けたりして、余程のことがない限り、大方は夕刻に帰邸した。
実際は炭坑、電力その他の関連事業のため、東奔西走して、席の温まる時も少なかったが、それだけに一層この規則正しい日常生活を崩すことは極力避けていた。

そして麻生の本部ともいえる、その本邸の事務所は、これまた整然と整理整頓されていた。すべてにおいて極めて几帳面であり、万事を整理して、まず乱雑で投げやり、人任せというようなことは、決してなかった。たとえ一枚の葉書でも疎かにはせず、一々区分けし、来信、発信にしても一字一句まで充分に目を通し、周到な配慮をした。
またこの事務所の入口の扉には、中国好みの朱塗で六朝風の彫刻が施してあり、元京都方広寺派の管長・間宮英宗禅師の筆になる『含笑』の額が掲げてあり、中に入ると『馳才竭能希典』と書かれた乃木将軍の筆と、維新の名傑西郷吉之助、前原一誠、坂本竜馬の揮毫や、貝原益軒の『忠信』という文字の篆額などが掲げてある。もともと自分で“太吉忠信”と言ったりして、死後の戒名も『巍徳院繹幸覚忠信太山居士』となっている。

また太吉が幼い頃、父賀郎から、山に草刈りに行って仔牛に荷負わせた青草が、分不相応に多かったことを叱られて以来、わが身の処世訓、座右の銘として、子供たちや後輩に常に言っていた『程度大切、油断大敵』の八文字を、自ら大書して、これを木に彫らせた大額を掲げている。
次に事務所の内部に眼を移すと、多くの木箱が配列よく並べられて、その上に炭坑関係、電気会社関係、鉄道関係、土地関係、政治関係と丁寧に書かれた紙片が貼られてある。また押入れには、会社その他からの来信が、十日目ごと一束ずつにまとめられてある。しかもそれが取引先別、または事件別に区分けされているのをみると、今更ながらその緻密、細心、整然さに驚かされる。偉大な事業家の蔭に、このように周到な用意のあったことを如実に示している。

この本部事務所で、次々と各方面に指令を発し、七十七年間それこそひとときの唇造鬚箸襪海箸發覆、太吉は活動を続けたのである。またひとつの想を練るとか、少し疲れを覚えたりした時は、四季折々の花がほほえむ広大な庭園を散策して、心を新たにし、また仕事にかかるのである。
そして一日が終わると、こころ静かにその日の出来事を日記に丁寧にしたためたのち、寝につくという折目正しい日常であった。
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