麻生の足跡

若松港

麻生の足跡−地域とともに−
若松港
 筑豊が炭鉱の町として目覚しい発展を遂げた明治中期。麻生、貝島、安川といった地元の炭鉱主に加え、住友、三菱、古河などの巨大財閥の進出もあって、採炭量は年々増大していきました。筑豊炭田の採炭量は、明治18(1885)年には年間23.6万トン、国内の石炭生産量の18%程度でしたが、明治28(1895)年には213.6万トン、国内シェア45%を占めるまでに成長したのです。

 石炭の産出量が増大するなか、問題となったのは港の整備でした。
 掘り出された石炭は、江戸時代から遠賀川を下る船「川ひらた」で、玄界灘を臨む若松まで運ばれていました。そして、若松の港で船に積み替えられ、搬出されていたのです。
 ところが、当時の若松港には大きな船が入港できませんでした。若松港のある洞海湾は水深が約3mと浅く、干潮時には1.5mほどの浅瀬になってしまうからです。そのため、炭鉱から運ばれてきた石炭は、積載量およそ80tの艀(はしけ)にいったん積み込まれ、外海に停泊している大型船までピストン輸送をせざるを得ませんでした。

「多くの石炭を積み出すために、若松の港を改築しなければならない」。筑豊の炭鉱主たち、そして若松の港湾関係者たちの切なる願いをもって、明治23(1890)年5月に「若松築港株式会社」が設立されます。洞海湾の水深を深くして航路を広げ、若松港を拡張しようというのです。発起人は、麻生太吉、安川敬一郎ら炭鉱業者を中心とした81名でした。
 しかし、若松築港は資金難にぶつかります。総工費230万円のうち50万円が捻出できず、解散に追い込まれようとしていたのです。

 明治26(1893)年に筑豊興業鉄道が若松から飯塚まで全線開通し、蒸気機関車でより多くの石炭が運搬できるようになっても、最終的な積み出しができなければ、石炭の産出は頭打ちになってしまいます。当時、衆議院議員に選任されていた麻生太吉は、国庫補助を取り付けるために奔走をはじめました。自らが若松築港の監査役となっていたため「我田引水ととられるおそれもあるだろう」と懸念を抱いてはいましたが、筑豊の発展、ひいては日本の重工業の発展を考えれば、進むよりほかに答えはありません。
 太吉は議会でヤジを飛ばされながらも、懸命に事業の必要性を説きました。結果は賛成99票、反対132票。残念ながら否決されてしまいます。
 しかし、太吉は諦めません。持ち前の粘り強さと熱意で関係各所を説得してまわり、ついに貴族院での可決にこぎつけました。その後、衆議院の予算総委員会で原案を復活。明治33(1900)年度から5か年にわたって、計50万円の補助金交付を取り付けました。

 資金に目処がつくと、海底掘削、護岸、沿岸の埋め立てなど、港湾整備の工事がすぐさま進められました。幅20km、奥行き2kmの洞海湾に完成した若松港は、干潮時でも9mの水深を保ち、多数の大型船が入港できるようになったのです。
 若松港の大改修は、筑豊炭田の発展にとどまらず、八幡製鉄所を中心とした北九州コンビナートの形成にも大きく役立ちました。なお、炭鉱が閉山になった現在では、セメントや薬品の搬出に大いに利用され、地元の産業を支え続けています。

わかちく史料館
住所:福岡県北九州市若松区浜町1-4-7
電話:093-752-1707
開館時間:10時〜16時 入館無料
休館日:月曜、祝祭日、年末年始
駐車場:あり
http://www.wakachiku.co.jp/shiryo/top.htm

若松港